NZ異文化交流記:宗教に触れる⑤ キリスト教 @ニュージーランド滞在記

 こんにちは!薬剤師のえなさです。


前回の話はこちら↓
NZ異文化交流記:宗教に触れる①②③④ 


率直な私の感想なので悪しからず😌






今回は、キリスト教のお話。



キリスト教の宗教観


実はホストマザーのアンとは、何度か宗教観について議論になったことがあります。
敬虔なクリスチャンであったアンには、私が「神(ゴッド)を信じていない」ということに大きな違和感があって、どうしても理解できない部分があるということでした。

キリスト教での考え方では、神に強く祈らないと辛い道を歩むことになる、神のもとへ近づくことはできない、救いを求めても助けてもらえない、ということでした。
それが怖くないのか?と。

キリスト教では、どれだけ神に祈り、神と自分がいかに深い関係(relationship)を繋げられているかによって、救いの度合いが違うとのこと。


アンは、一度事故で腰を折ったことがあり、もう立てないのではないか、と絶望したことがあったそうです。その時、それまでしっかりと神との関係を繋いでいたこと、さらに懸命に神に祈ったことで、周りにいい人が集まり、助けてくれて、また、奇跡的に元気に生活できるようになったということでした。
周りとのご縁も、元気に暮らせるようになったのも、全ては神がお救いくださったからで、これからもしっかりとお祈りをして、神との関係を深めていきたい、と言っていました。

なので、私に「試練」が訪れた時、神を信じていなかったら大変なことになる、と心配してくれたのです。



日本人の道徳心


私は、神を信じていないわけではなく、〇〇教と言われる宗教に属していないだけで、信仰心はもちろんあります。
その信仰の対象が、キリスト教でいう「ゴッド」だけではない、というだけのことなのです。

私たち日本人が、基本的に道徳心として持っている「神道」の考え方では、キリスト教の「ゴッド」もイスラム教の「アッラー」もヒンドゥー教の「シヴァ」も仏教の「ブッダ」も、言ってしまえば、私たち(日本人)が崇める神のひとつであって、唯一神ではないのです。

神様は全てに宿っていて、全てが尊いのであって、何かひとつに教えや救いを乞うているわけではないのです。
全てを重んじ、尊び、己に恥じない「良い行い」を続けていれば、きっとご縁が繋がっていくし、素晴らしい機会にも恵まれるはずだ、という考えなわけです。

救いが欲しいと思うことはないのか?と聞かれたことがありますが、ちゃんと大切にしていれば、ご先祖様がきっと守ってくれます、と答えました。この辺は、仏教観に近いかもしれませんが、アンにはやはり理解し難いようでした。




お天道様が見ている、の意味


神道の考え方は、教え、というより、道徳心や教養として身に付けられていくわけですが、アンはそれが理解できなかったようでした。

なぜなら「良い行い」を定義する聖書(経典)がないのに、なぜ日本人は背徳的な行為(盗みや暴力等の犯罪行為や利己的な考え方・振る舞い)をわきまえ、他人に思いやりを持って優しくできるのかがわからないから、だそうです。

アンと話すことによって、私の中でも疑問が生まれました。
確かになんでだろうと。


「〇〇教」といわれる宗教は、キリストやムハンマドのような伝道師が神のお言葉を代弁し、それが聖書(経典)になって、それを軸に信仰心が構築されていくわけですが、神道には教科書もありませんし伝道師もいません

特別な授業があるわけでもないし、確固たる法律や規則があるわけでもない。
己に恥じない「良い行い」を定義するものは何もないのに、なぜ「背徳感」を感じることができるのか?
「お天道様が見てるよ、悪いことをするとバチが当たるよ!」という考え方は、どこから生まれたのか?
そして、なぜそれを信じているのか?





どんな信仰心であっても、結局のところ「信じるものは救われる」という言葉に集約されていると思いますが、日本人は一体何を信じているのでしょうか?

無宗教の人たちは「私は自分しか信じない」と言っていましたが、それはまたちょっと違うような気がしました。



私は宗教や歴史を勉強したわけではないので、ひとりで考えたところで、結論は出ないなと思いました。
結局アンにはっきりと答えることはできませんでしたが、私が神を信じていないわけではないということ、日本人には特有の道徳観があるということは理解してもらえたようでした。
納得はできないみたいでしたが笑

いつかどこかで、有識者の方のお話を伺ってみたいなと思いました。





えなさ


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